紀行

2008年6月28日 (土)

その四、楽園の国?

私は出発前から、二ヶ月後の演奏会で弾くシューマンの「謝肉祭」に関して、ヨーロッパの人の誰かに、背景を尋ねてみるつもりであった。

コルドバでの食事の後、問いかけてみると、パリに住んでいるドイツ人のアンドレアさんは、教会の聖歌隊に入っていてオルガンの演奏もするらしい。

帰りのバスの中でゆっくり聞いてみようと、座席にすわって出発時間を待っていたら、ドイツの二人組がまだ戻って来ないのに、運転手はバスを動かし始めたのだった。

戻ってないのが、たまたま私の待っている二人だったから気づく事ができたけれど、それまでは合理的と思えたシステムが、急に色あせてしまった。

まあ、運転手さんにはとても感謝されたけれど・・。

アンドレアさんは、「カーニヴァル(謝肉祭)」の由来から、コロンバインとパンタロンは必ず対になって現れる道化師だとか、ピエロとアラルカンの違い等、様々な題名の背景を説明してくれて、それはそれは楽しいものであった。

それらの名前は、アガサ・クリスティの「ハーリクィン」シリーズにも時折登場する。きっと、ヨーロッパの人々にとって、名前の響きを聞くとすぐ思い浮かぶ様な、特別の世界があるのだろう・・。

最終日は、主人も仕事が半日で終わったので、初めて一緒に街へ出かけてみた。

鼻かぜをひいたらしい私は、薬局でティシュペーパーを買ったのだが、お金を払う段になって英語の数字も全く通じない事を発見。昔覚えたポルトガル語から連想して支払いを済ませた。

スーパーに入って、チョコレート等を買ってみるのも、まるで冒険の様に楽しい。

お昼も大分過ぎた頃、ビールを立ち飲みしている人が見えたので、奥まで入ってみた。

勿論注文は、全て指さしである。

煮込んだお肉と手作りの野菜に、「クルスカンポ」。余りの美味しさと値段の安さに、迷う事なく次々とお代わりを頼む。

何をしゃべっているのか。まわりでグラスを傾けている人達は、のんびりと楽しそうに見える。

言葉の通じない夫婦者が入ってきたところで、さして関心を払う事もなく、ゆっくりと時を過ごしている。

若くて美しい女性に、でっぷり太ったおばさん達。毎日が楽しくて、食べ物がこんなに美味しかったら、太らない訳もなかろう、等と想像する。

毎日が楽しく過ごせるのだから、自分達の世界で充分、といった中華思想にまで思えてくる。

「外国語なんて、苦労して覚える事なんてないのさ・・」

フラメンコのお店もいくつか見つけたが、夜になって9時位に始まるらしい。

一度ホテルに戻ってから又出直す事にしたのだが、部屋に着くとやっと仕事の終わった主人は、まずは冷蔵庫からビールを取り出す。

暑さの下を歩いた後でもあるし、冷えたビールの美味しかった事!

まだフラメンコまでには時間もあるし、ちょっとベッドに横になってしまったのが、まあ言ってみれば運の尽きであった。

気がついたら、窓の外は白々と明けていて、私達は夕食も食べずに、朝までこんこんと眠り続けてしまったのだった。

| | コメント (0)

その三、踊る女の子達

翌日は、コルドバへのバスツァーがあった。

旅行社のバスが、各ホテルを回ってそこでお客さん達を乗せてくれる仕組みだ。

私たちの仲間は7人。日本からのK夫人が一緒なので心強い。他には、パリに住むドイツ人二人と、英国からの二人にオランダから一人。

私より10歳位年長の彼女はニューヨーク生まれで、語学もさることながらその社交性が実に堂にいっているのだ。

バスが市内を回って乗客を集め終わると、それまで参加費を集めて手続きをしていた旅行社のお兄さんは、「では皆さん、良いご旅行を!」と言うなりバスを降りてしまい、頼りは運転手さんだけとなった。

10時半位にコルドバに着くと、「英語のガイドをご希望の方は、私に付いて来てください!」とスペイン語訛りバリバリで、明るい感じの女性が傘を高く掲げて呼びかけてきた。

以前のイタリヤでもそうだったが、ガイドさんは皆折りたたみ傘を持っていて、その傘がグループの人々に対する目印の様であった。

それ以外はスペイン語のガイドしか居ないのだから、そちらに加わる他はない。

出発前にはコルドバへ行く機会があろうとも思わなかったし、全く予備知識がなかったので、半分位しかわからないものの、やはり説明があって楽しかった。

コルドバの代表的な建築物は、「メスキータ」とよばれる、壮大なかつてのイスラム寺院である。

細かい幾何学模様の彫刻や建物自体の荘厳さは、翌日訪れたグラナダのアルハンブラ宮殿には及ばないのだが、私の心に強く残ったのは、後に制圧したキリスト教徒が、そのイスラム寺院の中に教会を作り上げてしまった歴史である。

経費の節約もあったらしいけれど、ラテン気質を想像せずにはいられない。

説明によると、殆どの庭や建物は20~30年前には荒廃していたらしい。皆、当然の様に頷いて聞いているので、質問するタイミングなんてあったもんじゃなかったけれど、どうやらフランコ政権下では歴史的なものは置き去りにされていた様子だった。

街の散策も終わり、「それでは、これで解散します。バスの乗り場はここの場所で、出発は二時です」というなり、ガイドさんは傘をしまって去って行った。中々合理的ではある。

お昼時だったので、お仲間と適当なレストランに入って行った。

7人の顔ぶれは大体古参の人達で、次の開催場所のアラスカの事や、今まで訪れた場所の話など、楽しそうに話題が弾むのだが、私にとって一番気苦労の多いのが、こういった場である。

一対一ならば少しは度胸もすわるのだけど、輪の中でのおしゃべりは特別にテーマがある訳でもなし、とりとめもなく、しかもスピードだけは半端じゃないのだから。

そんな時に、つば広の帽子を被ってギターを抱えたおじさんがやってきて、民謡らしきものを歌い始めた。

「こういうのは、食事中は迷惑よね。」「そう。パリでもよく地下鉄に居るのよ。車両を替えたくなるわね」等と、お仲間達は言いながらも、社交的な彼女達のこと、一曲終わると拍手は惜しまない。

暫く歌が続いていたが、見ると中央のテーブルに座っていた若いグループが、体を揺すりながらノリノリで、終いには2~3人の女の子達が椅子から立ち上がって、音楽に合わせて踊り始めたのだ。

どんな人達なのかは知らない。でも、腰をくねらせて踊っているその様子は何はともあれ楽しそうで、スペインの人達はこうして人生を享楽しているのかと、こちらまで浮き浮きしてきた。

そうなると、回りにいた食事中のどの人達も皆、振り向いては彼らのダンスを眺め始め、終わってから、被っていた帽子を手に持って各テーブルを回ったおじさんに、チップを惜しんだ人は余り居なかったろうと思う。

もっとも、ホテルに戻ってから、仕事帰りの主人にその話をすると、「結構、さくらだったのかも知れないよ。」と言われたけれど・・。

| | コメント (0)

その二、言葉について思うこと

ホテルに戻ると、毎年お会いする会議のメンバーの色々な顔ぶれが、ロビーのあちこちで見かけられた。

日本からいらしているK夫人が、「コルドバとグラナダへのバスツァーの申し込みを、事務局が受け付けていますよ」と知らせてくれる。

すぐその足で申し込みに行った。まあ、後々英語で苦労するとも思いつかずに・・。

翌日は、夫人達には特にプログラムが無かったので、市内見物へと出かけた人が多かった。

ハンガリーのミラさんが、「一緒に行かない?」と声をかけてくれた。

彼女とは、数年前に南イタリヤでお会いした際に、アマルフィ海岸巡りのバスツァーに一緒に参加して以来、見物には意欲的というお仲間意識ができている。

英語に堪能な彼女は、ホテルのフロントで観光バスの申し込みをしてくれて、その日も真夏日といってよい程のカンカン照りだったセヴィリヤの街へと、二人で繰り出していった。

観光バス用の停留所が、街の要所要所にあって、同方向であれば乗り降り自由という、まことに自主自立のシステムなのであった。

ところが、これがスペイン時間というものなのか。停留所では、待てどくらせど、その観光バスはやってこない。

一緒に待っている人が他にも居たので心強かったのだが、どうやら向こうも私たちを見て心強く思っている様子。

大体、旅行者はそこの場所の事情には疎い訳だから、結局肩をすくめ合ってため息をついているだけで、お互い余り助けにはならない。

「ホテルに戻って、払い戻してもらおうかしらね・・」等と話す頃になって、やっとバスがやってきたのだが、遅れた理由の説明は特に無く、待っていた人たちも、バスさえ来てくれれば乗れた事で皆ハッピーという、何とも楽天的な社会なのであった。

バスに乗ると、小さなイヤフォンをくれた。スペイン語はじめ6ヶ国語位のチャンネルがあって、ガイドの説明が聞ける仕組みだが、残念なことに日本語はまだ導入されていなかった・・。

ミラさんは、ロシア語の説明を聞いて楽しそうにしている。英語の説明を必死に聞く私の健気さは、我ながら涙ぐましい・・。

中心街で、バスを降りて少し歩いてみることにした。小さな街だから、歩いているとお仲間の姿をあちこちで見かける。

私は本来、「旅とは、地面の上を歩いてこそ経験」と思っているので、そのまま歩いてホテルまで帰りたい位だったのだが、それはどうやら安全大国ニッポンの、のんきな感覚らしい。

ミラさんは、女性だけで見知らぬ街をぶらつくという事には大変慎重であって、「歩いて帰らない?」と提案した事すら恥ずかしくなった位だ。

私は、翌日のバス旅行の為に現金を用意したほうが良いといわれていたので、銀行を探したのだが、いずれも午後には閉店している様子でびっくり。

もっとも、スペイン語はわからない私たちの事だから誤解しただけかも知れないけれど、開店時間の表示を見た限りでは、シエスタの後に再び開店するとも思えなかった。

暑さの中で飲んだ、オープンカフェのビールは、とても美味しかったけれど。

その日の夕方には、市長さん主催の歓迎パーティがあった。

タパスという、オードブルの様な軽食が次々と給仕されて、さすがにその時のパーティのお料理は絶品であった。

そして市長さんのご挨拶が、大勢の外国人に対してスペイン語でなされ、堂々と通訳に解説させていたのは印象的であった。

何年か前、リトアニアの大学で総長がお茶会に招待してくれた事があった。

その時も、総長は英語の通訳付きでリトアニア語のスピーチをした。だがそれは、彼らが母国語を大切にしている姿勢なのであって、その後は居合わせた他の人々も含めて、普通に英語で歓談していた事を思い出さずにはいられなかった。

私たちは普段、「国際的な場では、まず英語を」、と疑いも無く考えている傾向がありはしないだろうか。

まあそんな事を口にすれば、只、自分の語学力の貧しさを弁護している様に響いてしまうけれど・・。

| | コメント (0)

2008年6月25日 (水)

アンダルシアの思い出、その一「クルスカンポ」

昨年のことだが、美容院で新顔の若いアシスタントが、就職する前に行ったスペイン旅行の話をしていた。

仕事が始まると休みも取れなくなるからと、一人で思い立って出かけた場所が、バルセロナだという。

初めての海外だったそうだが、二週間にもわたって、特に移動せずにゆったりと過ごしていたというのが凄い。

数ヶ月後にスペインへ行く予定だった私は、その話を聞きながら見知らぬその国への思いをつのらせた。

昨年のヨーロッパは異常気象だったらしく、出かけたのは9月の終わりだったのだが、まだまだ暑い日が続いていた。

残念ながらバルセロナは、往路乗り換えの為に一泊しただけであったが、長旅の後にホテルでとった、最初の食事やビールの美味しさは、まるでスペインが主人と私を、「ようこそ!」と歓迎してくれてるかの様だった。

そこで覚えた「クルスカンポ」という名のビールを、それから何度繰り返して注文したか知れない。

スペインの西南アンダルシア地方のセルヴィアという街が、今回の目的地であった。

朝の便でバルセロナからセルヴィアに着いて、まずは空港の案内所を探す。

ところが何と、そこではスペイン語しか通じない。

タクシーの運転手とはさすがに意思の疎通ができて、とりあえずはホテルにたどり着いたのだが、この未知なるものへの感覚が何とも心楽しい。

ホテルに荷物を置いて、外へ出てみた。

主人が「美味しくビールを呑むために」と理由付けて、旅行中にも欠かさない、週末の二時間ジョギングができそうな道を探しながら・・。

グァダルキヴィルという名の大きな河べりに行き着いてみると、ゆったりと散歩している人達の姿がちらほら・・。

その日は日曜日の、まだ午前中なのであった。

ホテルへ戻る途中、小さな居酒屋風のレストランを見つけて中へ入ってみた。ガラスのケースに、ローストチキンや、煮込んだ牛肉などが並んでいる。

身振り手振りで注文する楽しさを久々に味わう。ちょと濃い目の味付けながらチキンの美味しかった事!

こうして、セルヴィアでの第一日目が始まったのだった。

| | コメント (0)

2007年8月25日 (土)

マラトン

美しいミコノス島からアテネに戻る日、私達の乗ったタクシーの運転手さんは、さかんに携帯電話でなにやら連絡を取っていた。体格も人もよさそうなその人は、ちょうど学校帰りの中学生達が連なって歩いてくる一角に、車を止めた。

すると、一人の女の子が皆に「じゃあね・・」という風に手をふると、タクシーの前のドアを開けて普通に助手席に乗ってきたのだ。そして、運転手と親しげに話をしている・・。

事情が飲み込めるまでに時間がかかったけど、一応「あなたの娘さん?」と尋ねてみたら、英語の堪能そうな運転手さんは「ヤー」と肯定するのみである。

その後、助手席に人が乗っているタクシーを止めて新たに乗リ込む乗客、というのをアテネの街で何度か目にした。タクシーの助手席は、プライベート使用なのだろうか・・。

アテネで少し時間があったので、「地球の歩き方」というガイドブックを頼りに、マラトン行きのバス乗り場へ向かった。

本によれば、マラソンの故事の由来になった古戦場跡があるマラトン村の、側を通るバスが、1時間に1本出ているという事であった。

年に一回、フルマラソンに参加するのがここ十年くらいの趣味にしている同行の家族に付き合って、とにかくその路線バスに乗った。

乗る前運転手さんに、「マラトン?」と尋ねて、そこで降りる意思を伝えておいたお陰で、場所に着いたら教えてくれたまでは良かったが・・・。

降り立った場所は、道の両側に、それぞれの方向行きのバス亭のポールが立っているだけの、何もない原っぱであった。

運転手さんが、指差した方向へ歩き出してみたものの、人にも出会わず案内等探すべくもない。そのうち農家が一軒みえたが、私達を見て犬が吠え出したので、男のひとが姿を現した。

「マラトンへいきたいのだけど、こちらで良いだろうか・・?」と訊いてみたところ、言葉は通じなかったが、マラトンの言葉に頷きながら私達の歩く方向を指し示してくれた。

意を強くして暫く歩いていくと、公園が見えてきた。馬に乗った将軍の像もあって、事務所のような小さな建物が見えた。

中に居た若い女性が、公園の管理事務所で仕事をしているらしく、「マラソンの発祥の場所はここですか・・?」と尋ねると、「ここは戦勝記念公園です。アテネオリンピックの時のマラソン競技の始点は、ここからは大分先にあります。」という。

マラソンの故事の場所を見に来たのだ、と重ねて言うと、「ああ、戦争の勝利を報告する為にアテネまで走った故事ね・・・」

「今バスでアテネから来たのだけど、あの道を走ったのだろうか。それとも後に見える、小高い丘を超えて、アテネまで行ったのだろうか・・。」と更に聞いてみたら、

「確かに、あちらがアテネの方向だけど、2000年以上も昔の事ですものねえ・・・。誰にもわかりませんね・・・。」

「フー・ノウズ・・・」といってその若い女性は、笑いながら両手を広げて肩をすくめた。

私達に分かった事は、ギリシャの人達にとって、「マラトン」とは、ペルシャ戦争で相手の大軍を撃破して勝利に導いた、その記念の場所として有名なのだ、という事であった。

| | コメント (0)

2007年8月16日 (木)

ディロス島

ミコノスタウンは、建物ばかりか道路にも白いペンキが塗られていて、真っ白な街並みには、ブーゲンビリアの濃いピンクやオレンジ色の花が咲き乱れ、視線を上げれば、周り一面は紺碧のエーゲ海で、まるで絵本の中にピョンと紛れ込んだ気分であった。

道端や海岸には、人慣れしたペリカンがひょこひょこ歩いていたり、洗練された雰囲気のゲイのカップルが歩いていたり、ちょっと不思議な街だった。

小旅行からホテルに戻ってみると、留守中に荷物が本来の大きなホテルの方に運ばれていて、それから後は、物事がスムーズになった。しかし、後から着いたアメリカからの夫人達は、すっかりコテージが気に入ったそうで、暫くはそちらに滞在していたらしい。まさに、お気に召すまま、である。

お詫びの気持ちだったのだろうか、部屋にはフルーツが山積みされた大皿とワインの壜が置かれてあったが、ことさら説明はなかった。

翌日は、アポロが生まれたという伝説の島、ディロス島へのクルージングであった。「日陰になる物もないし、食べ物を供給する場所もないので、対策怠りなく」という知らせが入る。大皿から林檎を数個持参した。

説明書によると、島全体が博物館の様な扱いで、夕方になると島を閉じてしまって宿泊はできないし、月曜日にも島を閉じるのだそうである。

さすが、ギリシャの遺跡で、色々な説明も楽しかった。多分ガイドのおじさんの英語が分かり易かった為だろうと思うが・・。

クレオパトラの家の跡、と言うのがあったので、思わず「クレオパトラ?」と聞きかえしてしまった。

「そうです。クレオパトラという名はよくある名前なのです。あのクレオパトラは、エジプトの女王だし、時代も違うからね・・・。」

海外に行くと、周りの人々の体格が立派な為か、無意識のうちに気分が若やいで、というか気分が開放されて、子供返りしてしまう傾向がある。言葉の幼さが、主な理由だろうか・・。

最後に、博物館の建物へ行って、島で発掘されたライオンの像のレプリカを見た。有名なものらしい。誰かが「これらは全部、雌のライオンなのかしら・・・?」と質問した。確かにどのライオンにもタテガミは見られない。

ガイドのおじさんは、意表をつかれた、という風で答えに窮している様子だった。さぞかし紀元前のギリシャの人々にとっては、ライオンなんて、見た事もないだろうし、もしかしたら麒麟の様に、想像上の存在だったのかも知れない。

| | コメント (0)

時の過ぎ行くままに

数年前、ギリシャのミコノス島を訪れる機会に恵まれた。家族の仕事のお供で、先ずパリ経由でアテネまで行き、その晩は空港に隣接するホテルに一泊した。

アテネに着いたのは夜10時頃だったが、飛行機からは夜空に、ちょっと花火の様な不定期に発する閃光の輝きが度々見えて、旅情を誘った。

あとで、それは当地では珍しい雷で、ギリシャでは「雷」という言葉は、ゼウスの怒りという意味を表すのだと知ったのだが・・・。

翌日、小型機に乗ってミコノス島に着くと、出迎えてくれたギリシャ側のスタッフは、ニコニコと歓迎してくれた。

が、連れて行ってくれた先は、今回のミーティング会場にもなっていて、あらかじめ予約してあったホテルからははるか離れた、島の反対側の海岸沿いに建ったコテージであった。

前日が異例の天候で海が荒れた為に、予約していたホテルではチェックアウトする筈の人々が出発できず、部屋が不足しているのだ、とは後からの説明であった。

とりあえず部屋に落ち着いた私は、素敵なコテージから見えるエーゲ海の景色に目を奪われて、暫くの間コテージの立ち並ぶ周辺を散歩して回った。

ミコノス島は、観光地だからなのだろう。点在する家という家が、真っ白な直方体の壁に紺青色の鎧戸と言う風にカラーが統一されていて、所々に見える小さな小さなチャペルは、サイロの様な形で、やはり白い壁に屋根は小豆色であった。

ギリシャ正教のそれらのチャペルは、それぞれの家の個人の礼拝堂なのだそうである。日本のお仏壇の様な位置づけなのだろうか。

コテージから眺められる夕日や朝焼けは、その日の天候に左右されたのだろうが、それはそれは感動的なものだった。様々な場所で、「黄金の夕日」とか、「100万ドルの夕日」等と銘打っているが、結局は天候次第なのではないだろうか、と思われる程であった・・。

後ほど、連絡バスで本来のホテルに案内された私達は、そこであった歓迎パーティーに出席して、先ずはほっとしたのだが。

翌朝、同伴者小旅行にサインナップした、私達コテージ組の三人の夫人達を、連れて行ってくれたのは言葉の通じないホテルのバス運転手であった。

が、行き着いたのが、前日ホテルで指示された集合場所ではなくて、船乗り場の様な閑散とした所だったので、私達は、戸惑いというよりも不安を感じずにはいられなかった。

予定の時間になっても誰一人現れる訳でもなく、唯一の頼りは今回の新顔ではあるものの、母国語が英語であるカナダから来たお仲間なのであったが・・。

待ちくたびれた私達が、思い余って旅行会社に助けを求めた頃、やおら見知った顔ぶれが乗っっている貸切バスが到着した。

後で聞いたところによると、私達三人を待っていた為に、ホテルの出発時間を大幅に遅らせたらしい・・。

そこは、一番の観光地ミコノスタウンの港場だったのだ。合流した私達は、その日、ガイドブック等で見覚えのある、丘の上に風車の並ぶ、有名なミコノスの街を見物することになっていた。

幹事役を担ってくれた夫人は、「今日は計画が替わって、ガイドさんが引率するツァーではなく、それぞれ自由に街を歩き回ることになりました。ホテルへ戻る連絡バスは、ここを午後三時に出発します。」

さすが個人主義のヨーロッパだなあ、と感心していた私は、ドイツから来た夫人の、「ガイドさんが来なくて、自分達で歩くだけならば、今日の参加費の7ユーロは何のための費用だったのかしらね・・・?」という見解にも、又感心してしまった。

| | コメント (0)

2007年7月 9日 (月)

ヴェリ・ウェスタン!

コンスタンツ滞在も終わりに近づいてくると、最初こそは、様々な国の人々との交流が新鮮だった私も、いくら片言といえども、英語での会話の毎日に、そろそろ疲労を感じ始めて来た。

私は、最後の日の小旅行には参加せず、1人でのんびりと街を歩き回る事にした。しばらく歩いていると、大きな楽器屋さんがあったので、誘われる様に中に入って行った。

たまたま一ヶ月後にリサイタルを控えていた私は、急に思いついて、練習ピアノはないだろうか、と尋ねてみた。

何でも、聞いてみるものである。隣に音楽学校があって、夏休み中だから使用できますよ、と早速ピアノのある小部屋に案内してくれたのだ。エアコンもないからか、親切に窓を開けてくれたので、私はいつもの様に深く考えずもせずに、2時間程練習を続けたのだが・・。

時間が来て帰り際、お店の人が「窓は開けたままですか・・?」と聞く。自分で開けてくれたのに、おかしな事を尋ねるな、とその時は思っただけだったが、若しかして回りから苦情があったのかも知れないと、歩き始めてハタと思い当たったのだ。

少ししょんぼりした気分で歩いていると、突然「○○さーん」と名前を呼ばれて、耳を疑った。勿論、声の主は、日本からいらしているK氏だった。余程私が、戸惑った表情をしたのだろうか。

「いや、私はランチの後、ちょっと散歩してるだけで、又すぐ会場に戻りますから・・」

全く・・・。歩く、恥のかき捨ておばさん、である。

翌日、最後の朝食の際、私はお世話になったS夫人やドイツの方々に、ちょっと頑張ってドイツ語でお礼を言った。英語もおぼつかない私だから、一同びっくりして、つかの間、時の人状態であった。

ずーっと昔、ウィーンでピアノの勉強をしていたものだから。でも、語学の方はおぼつかなくてと、弁解に大童であった。

「演奏会とか、なさるの?」と聞かれて、「実は、一ヶ月後にリサイタルを予定しているのでね。帰宅したら、それはもう大忙しなのです。」と答えると、1人が「まあ、素敵。どんなプログラムの演奏会?」と聞いてきた。

生来真面目な私は、問われるままに、「ベートーヴェンとスクリャービンのソナタを弾いて、休憩をはさみ、後半にはシューマンの作品を二曲。」と説明をした。

すると、お嬢さんのご主人が指揮者のカラヤンの秘書(だったかな・・?)をしているという、音楽通の1人が言った。

「オー。ヴェリ・ウエスタン!」

私にとっては、実に目から鱗の言葉であった。

| | コメント (0)

2007年7月 4日 (水)

メーアスブルグ

コンスタンツから、対岸にあるメーアスブルグへ行くには、30分位船に乗っただろうか・・・。夏も終わりに近かったが、湖の辺は涼しい風が吹いていて、坂道の多いメーアスブルグの街を歩くには、最適な陽気であった。

街を少し行くと銀行があって、「ホテルで換金するより、ここの方がお得です・・」とS夫人の案内がある。まだユーロが導入される以前であった。

小さな街であったが、歴史的な名所がたくさんあり、新しい場所としても、有名らしい女流詩人の住んでいた館であるとか、ツェッペリンの小さな博物館もあった様に思う。

ニューヨーク生まれという、唯一の同胞であるK夫人と共に、夫人達の名簿を片手にしながら、お仲間の人々とおしゃべりを続ける。あとで「オランダからいらしてた、と言ってたから、この方ね」等と、復習しながら・・。

欧米の人々は、相手の名前をしっかり憶えて、会話の中でさり気なく口にするのだ。

メンバーが中高年の人達だったからか、ランチにワインという雰囲気がまるでなかったのには、ちょっとびっくり。顔ぶれによるのだろうが、大体注文しているのはお水であった。いささかカルチャーショックではあった。

S夫人が、各テーブルをまわりながら、雑談風にメニューの説明をしてくれる。「どうして、そんなに詳しいのですか?」と尋ねてみたら、「I was born on the lake 」と言っていた。美しい夫人の少女時代が目に見える様だった。

「午後からは、自由行動にします。3時に時計塔の下 で待ち合わせましょう。」 古くからのメンバーであるK夫人は知人も多いので、私はいつもの様に1人でお店等を覗いてみたりした。小さな街だから、何処に入っても顔見知りの人に出会うのだが・・。

時計搭に集まった頃には、色の白い欧米の人達は真っ赤に日焼けしている人も多い。美しい宮殿に案内してくれたS夫人から、「この中には美術館もあるのだけど、皆で行くのはちょっとハードスケジュールだから、行きたい方だけ個人的にどうぞ・・。」と案内がある。

私が最年少かとも思われる奥方達の集団だから、当然「どこかに座りたいわね。」と道端にあるオープンカフェに向かう。「良い日光浴だわ・・。」と言いながら好んで陽のさす場所を探す様子が、私には新鮮である。

メニューを見て、ドイツやスイスの人に尋ねながら注文しているお仲間に続いて、私がスラスラとメニューを読みながら注文したら、皆が驚いて拍手してくれた。昔、ウィーンに住んでいたとは、とても言い出せなくなってしまった。

何となくおしゃべりしているうちに、「そろそろ、行きましょうか・・。」という声がかかり、皆に付いて歩いていくと、そこには仕事を終えたご主人たちがぞろぞろとやってきたのだ。

大勢が連れ立って近くのワイナリーへ行き、色々な説明を聞いた。殆ど分からなかった私が、退屈そうに見えたのだろうか。「日本にも輸出していますよ。」と、わざわざ話かけてくれた気遣いは、ちょっと嬉しかった。

試飲もさせてくれたが、木の長いテーブルを囲んですわり、たくさんのグラスに色々なワインを注いでくれて、それはもう、早くもワインパーティーの様相だった。

ドイツにしては珍しく、赤ワインがたくさん出てきた。前にすわっていたフランスの夫人は、ちょっと口に合わないといった表情に見えたけれど・・。

帰りがけに私は、以前から探していた栓抜きを見つけ、嬉しくなって買い求めた。今でもそれを愛用しているのだが、使う度に、買い物をして居る間、皆さんをお待たせしてしまったなあ、とドジな自分を思い出してしまう・・。

湖岸に着くと、船が私達を待っていて、その晩は船上ディナーであったのだ。アメリカ風の明るいバンドの生演奏が続いて、お食事が終わると、先ずS夫妻が音楽に合わせてダンスを始めた。

次にS氏は、会長の夫人に手を差し伸べた。優しそうなフランスのおばあちゃま、といった様子の夫人は、先ほどジーンズショップで見かけた時に、試着していた洋服を身につけて、若々しいいでたちで立ち上がった。

次にS氏はアメリカから来ている若いお嬢さんを誘い、その頃には、他の人達も次々と踊り始めた。同じテーブルにいらしたK氏が、「日本にも、ああいう”おっさん”が、1人居るとなあ・・」とつぶやいてるのが聞こえた。日本大会誘致に、努力していらした頃だったのだ。

| | コメント (0)

2007年7月 3日 (火)

ツェッペリン

10年位前に、ドイツのボーデン湖のほとり、コンスタンツを訪れた事がある。泊まったホテルは、ツェッペリンが生まれたという古い建物であった。因みに、英語でZeppelin というと、 硬式飛行船を考案したドイツのツェッペリン伯爵の名前であると同時に、飛行船その物も指すらしい。

ボーデン湖は、ドイツ・オーストリア・スイスの国境にある大きな湖で、コンスタンツはスイスに隣接したドイツの小さな町である。主人と私は、最寄の国際空港があるチューリッヒから、鉄道とバスで当地に着いたのだが、そこには駅の改札口の様な場所があるだけで、入国審査はいとも簡略そうな様子であった。

ところが、私達のパスポートを広げて、丹念に色々なページをめくって眺めている係官の様子は、どう見ても好奇心としか思えない。そのうち、回りには他の係官まで集まってきて、我々の入国には、結構時間がかかったのだけれど・・・。静かな街に、その経路から入国する日本人はきっと珍しかったのだろう。

湖岸からは短い橋を渡って行く、小さな島の敷地全体が、私達の宿泊した「シュタイゲンベルガー・アイランドホテル」であった。

その建物はまるでお城の要塞の様だったし、湖を望む景観の素晴らしさは、さながら映画のワン・シーンを見る気分であった。

説明は一切なかったが、ここで生まれたというツェッペリン伯爵と、この豪壮な館との間には、どの様な関係があったのだろう・・・。天井の高くてどっしりした回廊の、壁に描かれた古いフレスコ画の中には、ドイツの皇帝が訪れた際の式典を描いた絵もあった。

そこで開催された会議に集まった、20名程の出席者達は、夫人同伴が慣例で、その年が最初の参加であった私も、様々な国の方々に紹介された。

そして、期間中は同伴者達の親睦のために、軽い小旅行が計画されていて、その際の、ホステス役だったS夫人のさりげない気遣いは、これがヨーロッパの社会なのかと強く心に残った。

着いた夜の歓迎レセプションが終わると、「明日の小旅行に参加したい方は、明朝ロビーに10時頃に集まってください」という知らせが入った。翌日頃合の時間になると、集まった人数だけを確認して、船の乗り場へ、思い思いの相手と連れ立って歩いて行く。お陰で私は、自己紹介の英語だけは、場数が踏めたと思う。

最初の日は、コンスタンツの対岸にあるメーアスブルグへ船で向かった。記憶によれば、12世紀頃に建てられた教会や古い街並みが残る、観光の名所であった。階段状の細い坂道の両脇に、小さなお店が並んでいる佇まいは、宮崎駿のアニメ映画を思い出す様な風景だった。

それが、久々のヨーロッパ滞在だった事もあったろうが、コンスタンツは私にとって、ちょっと現実離れした高揚感を感じながら過ごす、非日常的な毎日の舞台だったのだ。

| | コメント (0)

2007年6月19日 (火)

満月のナポリ

ナポリは掏りが多いし危ないから、できれば行かない方が良い、とソレントで出会った人々が口を揃えて言う。しかし、ソレントからの帰途、午前中まで仕事が残っていた主人の都合で、私達はナポリに一泊してそれからローマに戻る予定をたてていた。

電車を降りて駅前の道にでると、そこには確かに国際都市とも思えない、地面に商品を広げた様々な人種の出稼ぎ風の人々が、処狭しとひしめいて居た。

質素な身なりの夫婦連れには誰も注意を払わない、というのがナポリで得た教訓である。

地味な色合いのウィンドブレーカーを羽織って街へ出た私達は、魚市場で目の飛び出た珍しい魚を眺めたり、ナポリ大学をうろついてみたリ、仕事帰りらしい街の人に混じってフニクラに乗ったりしたが、誰も私達には目もくれない。

少し時間が遅かったが、ランチを取ろうと入ったレストランでは、当然のごとくワインが出てくる。一応、「大か、小か」、と聞かれたので、適当に身振りと共に「ピッコロ、ピッコロ」と言ってみたが、そこでの「小」とはハーフボトル!私は、すっかりナポリが気に入ってしまった。

危険だと言って、日本旅行客が行くのを避けている為だろうか。お店のおじさんは、美味しいピザを出してくれた上に、「日本から来たのかい?」と言って、殆どお昼休みに入っているらしい気配のお店で、石釜にピザを入れる様子を私にやらせてくれて、主人にシャッターチャンスを与えてくれた。

若い頃一度一人で訪れた事のある、ナポリの海岸沿いにある散歩道や、卵城にも行ってみた。当てもなく歩いていると、次第に日が暮れて来て、そこからは、方向的にヴェスヴィアス火山が、頂上に少し窪みのあるエム字型となって、その巨大な姿を見せていた。

そして、暫くするとその窪んだ場所の真ん中から、濃いオレンジ色の大きな満月が少しずつ顔を出してきたのであった。

泊まっていたホテルは、駅の直ぐ側だったので、半日歩き回って疲れ果てた私達は「ナポリ駅」と書いたトラムに乗って戻る事にした。運転手さんに、「ナポリ・ステーション?」などと身振りで確かめて安心した私は、調度よく空いた座席に腰を降ろした。

程なく私は、肩をそっとたたく主人にハッとなった。「次くらいが、駅だよ・・」

何と私は、危険で名高いナポリの路面電車で、ぐっすり眠りこけていたのだった。

| | コメント (0)

2007年6月18日 (月)

カプリの小学校

ソレント地方はレモンの名産地で、あたり一帯にレモンの香りが漂っていた。ディナーパーティーで初めて出会った、レモンチェーロの味は忘れられない。

レモンの皮を数週間お砂糖に漬け込んで、ジンか何かと混ぜ合わせる、アルコール度の高い食後酒で、それぞれの家庭に独特な味があるそうだ。帰国時、瓶詰めのものを自分用のお土産として買ってきたが、残念ながら当地で味わった物とは似て非なるもの、という感じだった・・・。

ソレント滞在中のある日、私は一人でカプリ島へ足を延ばした。ホテルで、島へ渡る船の時間と出航場所教えて貰って、トコトコと海岸まで下って行った。港町の多くがそうなのかもしれないが、ソレントもホテル等がある風光明媚な高台から、文字通りダウンタウンへは、かなりの高低差があった。

イタリア語は音楽用語位しか分からないので、辛うじて「青の洞窟」の名前だけ覚えて、取り合えずカプリ島へ向かって出発した。

島に着くと、客引きの様な人が「島一周のボートに乗るならば、直ぐ出発しますよ」と身振り手振りでせきたてる。一応「青の洞窟」は行くか、とこちらも身振りで尋ねると「シー、シー」と請合うので、急いでチケットを買い、乗船した。

ドイツ人の団体が一緒で、親しみのある言葉が何となく心強い。甲板の椅子の上で、風に吹かれて心地よく座っていたところ、やおらアナウンスがあって、イタリア語だから当然分からずに居ると、周りから大きなため息が聞こえてくる。

隣に座っていたドイツ人に聞いてみたら、「青の洞窟」には入れないのだという。天候が理由なのだそうだ。確かに、乗船前の説明は嘘ではないな、と自虐的に考える。中まで入れるか、とは聞かなかったもんな・・・。

島に戻ると、ケーブルカーの前は凄い行列である。「フニクラ」というのがケーブルカーの事で、これに乗って高台にある観光の名所へ行くらしい。先ずは、インフォメーションへ行ってみる。真っ先に行くべき場所ではあった。

数人待って私の番が来ると、私が口を開く前に係りのおばさんが、「青のドークツ,閉まってる!」と日本語でいう。

尋ねられる事は決まってるのだろうが、意表を衝かれた私は思わず「Why?」と聞き返してしまった。「波がたかーい!」とこれも、日本語であった。

フニクラに乗って島の高地へ行くと、第一の街・カプリタウンがあり、第二の街・アナカプリへはバスが通っている、と地図をくれた。

「アナカプリの丘」という有名なドビュッシーの前奏曲があって、街の名の響きには惹かれたが、言葉の通じない場所での一人旅は、歩ける範囲に抑えた方が良い。

カプリタウンは、岩盤の山の上に出来た様な町だった。教会前の広場には、お土産屋さんもあって、観光客がたむろしていたが、そこを外れると全く静かな一本道だ。

道に沿って歩いているみると、小学校があった。観光地で、突然生活の場に遭遇した様なちょっとした驚き。

以前、八丈島に泊まった際、荒々しい海の絶景に見とれていた私達に、宿のおばさんが「八丈は、海しかなくて・・。若者たちは皆、島から出ることばかり考えていますよ」と言っていたのを思い出した。

山の頂上の様な街からは、見下ろせば至る処に断崖絶壁の美しい地中海が臨めて、一人で歩いていても飽きる事はなかった。

カプリタウンに住むあの小学校の子供達も、やがては、この絶景の島から出る事を考える様になるのだろうか・・・。天使の様に美しい小学生たちをぼんやりと思い浮かべながら、私は、一人島に取り残されては大変とばかりに、ソレント行きの最終船に乗り込んだのだった。

| | コメント (0)

カーサケーロ

昔、「ポンペイ最後の日」という映画があった。内容は何も憶えていないながら、画面の印象ははっきり思い起こす事ができるので、多分予告編でも見たのだろう。ヴェスヴィアス火山の噴火で、灰の下に埋もれしまった街の話は、子供心にも結構ショックであった。

数年前、主人の仕事の関係で、イタリアのソレントに1週間程滞在した。ホテルの窓からは、ナポリ湾をはさんで、はるか遠くにヴェスヴィアス火山が見えた。本当にあるんだな、というのが正直な気持ちだった。

ある日、主人が午後の出番は無いというので、一緒に電車に乗ってポンペイまで出かけてみた。イタリアは国土が狭いという先入観があるせいか、思いのほかポンペイの遺跡は広い印象を受けた。

火山灰の下に1700年以上も眠リ続けていた街並みは、そのまま静かに西暦79年の面影を目の前にみせてくれる。天井こそ破壊されているものの、床のタイルのモザイク模様が綺麗に残っている家もあった。はっきりと、犬の絵が残っているのも見えた。

多分、何処かに記録が残っていたのだろう。医者の家だとか、だれそれの家という説明があって、「カーサミーロ」とか「カーサ某」と、イタリア語で「家」という意味らしい、カーサという名前がいたるところについていた。

寒い日であった。夕闇も迫り人々の数もまばらになってきたが、それでも猶、再び訪れることはないだろう、と飽きもせずに身を乗り出して中を見続ける私の横で、黙って付いて来た主人が言った。

「カーサn、ケーロ!」

| | コメント (0)

2007年6月 5日 (火)

プーシキン美術館

30数年まえ、ウィーンへ留学する行程として、私は安全で値段も安いJTBの、一週間かけて航路、陸路、空路と乗り継いで行くロシア経由片道ツァーに参加し、9月の始めに横浜港を出発した。

その頃は海外旅行もまだ一般的ではなくて、私はパリに留学中の友人に教えられたコースを辿る事にしたのだった。

私にとって、最初に見た外国はナホトカ港である。自然も雰囲気も、生まれ故郷の北海道を思わせるところがあって、懐かしい気持ちがした。

そこから、陸路ハバロフスクまで汽車に乗った。そこでは駅前の道の、どでかい広さと、人影のまばらなのが、異国情緒をさそった。

気のせいか、赤の色が至る所で目についた。お花畑のサルビア。おばあさん達が被るスカーフの色。

そして、あらゆる場所で目に飛び込んで来る、レーニンの肖像画だ。その大きさにも驚かされた。座っているだけでも、国土の広さが感じられる様な、巨大な空間。

ハバロフスクからは、飛行機でモスクワ入りをした。出発して4日目くらいだったろうか。その当時のシベリア鉄道は、戦略的な理由から通行禁止にしている場所があるという説明を受けた。

モスクワでは、メトロポールホテルという最上級の宿泊施設に泊まった。ダンスも出来る様な大きな食堂は、確かに格調は高そうだった。

只、調理に使う油が違うせいだったのか、私は日本を出発して以来、出てくる食事の特有の臭いに馴染む事ができなくて、食べ物には手が付けられず、もっぱらジャムを入れるロシア式お紅茶や、果実とか茹で卵でしのいでいた。

モスクワには二泊くらいした様に思う。一日目はバスに乗って、半日市内・観光ツァーというのがあった。信じられない位流暢な日本語を話す、若い男性のガイドさんの説明付きだった。モスクワ大学の学生だと言っていた。

赤の広場から始まって、独特の形の塔を戴く美しい聖ワシーリ教会や、モスクワ大学等を見物した。高台にある大学から見た街の景色が、素晴らしかった。お天気も良かったのだろう。

ロシア語の「赤い」という単語には、「美しい」という意味があるのだそうだ。「赤の広場」は「美しい広場」という意味になります、というガイドさんの説明であった。

午後からは自由行動だった。幸い、船内で顔見知りになった三人の男の学生さん達が、一緒に行きませんかと誘ってくれたので、添乗員にチャイコフスキー記念館とかトルストイの生家だとか美術館とか、自分のホテルの名前と住所等を、ロシア語で紙に書いて貰って、それを頼りに街へ繰り出して行った。

仲間の一人が、持参した浴衣に着替えて来たものだから、道行く人が物珍しげに振り返って行く。先々で、子供達が「チューインガム?」と言いながら、手を差し出す。時には、カメラを売らないか、と話しかけて来る人も居た。

色々珍しい場面には出会ったものの、いずれにしろ言葉が全くわからないので、トルストイの生家に行ってみようと、タクシーに乗って例の紙を見せた。

着いたところは素晴らしい宮殿で、さすが貴族出身のトルストイだけの事はあると、感心しながら中に入った行った。

それにしても広大な屋敷で、壁には素晴らしい絵が処狭しとばかりに飾られている。そのうち、仲間の一人が「凄い絵があるよ」と呼びに来た。

そこには、教科書か何かで見た事のある、マチスの金魚鉢の大きな絵が飾られていた。さすがの私達も、その時には何か勘違いをしているらしい事に気付いて、取り合えず絵を鑑賞することにした。

結局、タクシーの運転手さんが連れて行ってくれたのは、住所のリストの中で一番有名な「プーシキン美術館」だったのだ。

| | コメント (0)

2007年5月23日 (水)

シャガール

晴れた日の富士山を見ると、心の中で歓声をあげたくなる。やや雲がかかっていると「まるで浮世絵の様だ」と思い、裾野しか見えなくても、この彼方に山は端座しているのだと思い、何度見ても霊峰富士は、時に応じた嬉しさを感じさせてくれる。

今までに雲ひとつない富士山を堪能したのは、芦ノ湖のほとりにある「山のホテル」で過ごした秋の一日であった。家族の運転する車に同乗したので経路は覚えていないが、小田原近くで姿を現してから夕方陽が暮れるまで、欠けるところの無いその全景を、絶えることなく味わったものだった。

帰りに箱根の美術館に立ち寄った。そこでは「シャガール展」が開催されていて、私は初めて彼の作品をまとめて見た。

芸術作品は殆ど出会いが全てともいえるから、こちらの受け入れ態勢によって、関わり方の深さが全く違う。その日、私は幸運だったと言えるだろう。何しろ、富士山で幸せなひと時を過ごした翌日であったのだから。

描かれている題材が必ずしも楽しげではなくとも、殆どの作品から伝わってくる明るさに、私はまず強い感銘を受けた。

80歳過ぎてからのバレリーナを描いた、若々しいエネルギーにも驚かされた。しかも幻想的な世界。

帰宅してから彼の画集を買い求めて、その人生にはユダヤ教の影響が大きくあるのを知った。まあ、彼に限った事ではないのだろうけれど。

その頃、たまたまシャガールについて書かれていた新聞記事があった。「ユダヤ教徒の特別な言い回し、例えば非常に嬉しいときに、”空中に舞い上がる”という言い回しがあって、(日本語ならば”天にものぼる心地”、といった風な言い回しにあたるだろう)を、シャガールは具体的に、絵として表現している事が多い。それが部外者には非現実的に映るのだ。」という内容はとても興味深かった。

繰り返し描かれている「屋根の上のバイオリン弾き」は、危なっかしくも楽しい人生を送る、という言い回しでもあるのだろうか。

家族がテーブルを囲み、ゆっくり流れる時間を時計が表している、「安息日」という絵があった。

私は信者ではないので、詳細はわからないのだが、「一週間の七日目にあたる安息日は、神様の日だから働いてはいけない」と言った表現は、西洋の小説の宗教に関する描写で度々出てくる。

逆に言えば、ユダヤ教徒の人達は、人生の七分の一の時間を何もせずに過ごしても良いという事なのか・・?彼らは、その時間を何を考えて過ごしてきたのだろう・・・。

学んだり働く事を人生の美徳と考えてきたわが身に比べて、何と精神的に豊かな人生であろう。この民族から、優れた芸術家や研究者が生まれたのは、あながちDNAの問題だけでもないのかも知れない。

そして今日、津市の三重県美術館へ「シャガール展」を見に行った。

箱根で出会った絵とは、又違った数多くの彼の作品を見る幸せ。そうなのだ。シャガールの作品は、見る者に幸せな気持ちを味わせてくれる・・・。

若い頃の作品からは、個性やテーマを意識した、彼のメッセージが強く伝わってくるけれど、特に戦後の、ヴァヴァと再婚した後の作品は、明るく幸せなものが多い。

名声を得た後の落ち着き、と言えばそれまでだけど、最初の夫人ベラと共に過ごした、自己探求時代のエネルギーとは又違った、彼の穏やかなメッセージが、私にはしみじみと伝わってきたのだ。

| | コメント (2)

2007年5月 3日 (木)

グリーンゲイブルズ

子供の頃の愛読書の中に、モンゴメリの「赤毛のアン」があった。子供時代というよりも、今でも何かで疲れてほっと一息つきたい時など、古いお気に入りの文庫本を出してきて、しばしアンの世界に紛れ込む。

ふた昔以上も前だが、同年代の知人に「赤毛のアン」は大人の隠れ読者が意外に多いのだ、という話を聞いた。退職した夫婦が、カナダのはずれにあるプリンスエドワード島を一緒に訪れるという、微笑ましい話も時折聞くという。島をいつか訪れてみたい、という楽しみが私の中にも生まれた。

幸運にもその機会は、比較的早くやってきた。カナダに家族で一年間住んだ事があり、その頃10歳位だった娘と、帰国までには皆で舞台となった島に行ってみようという、無言の約束が出来上がったのだ。

住んでいたオタワでは、島の名前の、Prince Edward Island を省略して、P.E.I. と呼んでいた。スーパーでP.E.I 産のジャガイモをよく見かけて、何となく親近感を持った。

カナダの知り合達に、島へ行った事があるかどうか尋ねると、「ああ、日本人に人気のある小説の舞台ね。私は読んでないけど・・。」と、大人達は余り関心がない。

ところが我が家の子供達が通っていた、小学校と中学校の続いた公立学校で、生徒達が「赤毛のアン」のミュージカルをするという。「グリーンゲイブルズのアン」というのが原題だそうで、教えてもらわないと私達の「アン」には結びつかない。それにしても、「赤毛のアン」という翻訳のイマジネーションは本当に素晴らしい。日本での人気には、題名が多大に貢献しているのではないだろうか・・。

生徒達が演じたお芝居、とも思われない位にとても楽しい舞台を堪能して、少女小説には無縁の息子にも下準備を与えたところで、私達は車に乗って州をいくつも通り越し、最後にはカーフェリーで島に渡った。(因みに、現在は本土からの橋が出来たらしい・・)

P.E.I. に着いてまず驚いたのは、土の色が殆ど赤茶色で、その為かあたりが一面に明るい事だった。とくに海岸の岸壁などは、青い海との対比が素晴らしく、言語に尽くせぬほど美しい。島で産出されるジャガイモに、いつも赤い土が付いていたが、成る程と思った。

小説は10巻にも及ぶ長いものだが、度々話題になる髪の毛の色に比べて、土が赤い事を強調している表現は、少なかった様に思う。島で生まれ育った作者のモンゴメリにとってみたら、島が美しいという描写は至るところに登場させても、土の色に関してはごく当り前の事に過ぎなかったのだろうか・・・。

作者の親戚の家で、アンの家のモデルになった、「グリーンゲイブルズ」(緑の切り妻屋根の家という意味らしい)が、森の入り口に建っていた。ちょっと懐かしい感覚だった。

ストーブと呼ばれる昔のオーブンが、いかにもマリラの愛用キッチンという佇まいで置いてあったり、窓から林檎の木が見えるアンの部屋には、筒袖の洋服が架かっていたり、娘と一緒に物語を思い出しながら、楽しい時間を過ごした。傍らの芝生で待ちくたびれていた、主人と息子に感謝しながら・・・。

小説の舞台となったキャヴェンディッシュは、「アヴォンリー」という架空の名前に置きかえられていたが、たびたび現れた「シャーロットタウン」や「サマーサイド」と言う名が、実在する町である事にも、わくわくした。

州都のシャーロットタウンでは、「赤毛のアン」のミュージカルも観た。夏休みの間だけ上演されているそうだ。期間限定役者さんたちのお芝居は、立派な劇場で上演されていたけれど、個人的には子供の通う学校の、音楽堂で観たドタバタ劇の方が楽しかったなあ・・。

ここで食べたアイスクリームはコーンの代わりに、出来立てのワッフルに包まれていて、実に美味しかった。急いで食べなければ、溶けてしまいそうだったけど・・。

夕食には大きな吹き抜けのログハウス・レストランへ行った。随分長い列が見えたので、きっと人気があるのだろうと、楽しみにして最後尾に並んだ。

今獲れたばかりという、島名産の特大のロブスター・・・!ボイルしたものに、ガーリックバターをかけるだけだったが、その味の記憶は未だに忘れがたい。サラダバーには、ムール貝のワイン蒸しが山積みされていた。

一日中、退屈そうに付き合ってくれた9歳の息子は、「大人になって恋人ができたら、又ここに来るんだ。」と、つぶやいていた。

| | コメント (0)

2007年5月 1日 (火)

英国の館

エミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」に出てくる主人公ヒースクリフの名は、「ヒースの繁る岩壁」という意味なのだそうだ。10年程前にヨークシャーのリゾート地、ハロゲイトへ行った時にガイドブックで知った。作者の土地に対する強い思い入れが、主人公の名に投影されている様で心に残った。

ハロゲイトは、アガサ・クリスティが失踪した場所としても有名な、温泉保養地である。ブロンテ姉妹の生まれ育ったハワースにも近く、まわりの緩やかな丘陵地帯は、一面にヒースの繁みの、濃い紫色で埋め尽くされていた。でも、私にとって、ヒースの繁るヨークシャーという響きは、ずーっと昔、子供の頃の記憶につながっている。

「小公女」や「小公子」と共に、繰り返し読んでいたバーネット夫人の「秘密の花園」。両親の愛情を知らずに偏屈な女の子に育ったメアリや、病身でベッドの中で泣いている若様コリン、そして動物たちと仲よしの村の少年ジッコン。

ヨークシャーの館を舞台にした、三人の子供達が見つける秘密の花園は、何とわくわくする物語だっただろう。今でも挿絵を思い出す事が出来る。

20年ほど前カナダに住んでいた事があって、ある時子供の図書館で「秘密の花園」の絵本を見つけたのだ。それは、ずーっと昔、本を読みながら一人で想像していた私のイメージからは遠く離れた、多分本物の領主の館が描かれていたのだろう、たくさんの絵と共に話が繰り広げられていく素敵な豪華版であった。

文字からでは想像し得なかった秘密の花園の概念が目の前で形となり、又そこに現れた若様コリンのベッドや車椅子、広大な館の格式の高さ等が、それはそれは美しく、私を陶酔させた。

ブロンテ姉妹の小説を読んだのは高校生の頃で、それは本好きの仲間達と学校帰りに、駅の階段に何時間も立ち止まっては、熱く語った乙女チックな日々。サマーセット・モーム、アガサ・クリスティ。英国とは私にとって、それらの小説の舞台として慣れ親しんだ場所なのだ。

ハロゲイト滞在中には、欧米でテレビの人気番組だったという「ブライズヘッド、再び」のロケに使われたキャッスル・ハワードとか、前のプリンセス・ロイヤルであったメアリ王女が嫁がれた瀟洒な居城、ヘアウッド・ハウスといったお城を見せて貰った。

実際に英国の館を見学する機会であったのだが、英語での解説だった為、当然の様に説明される英国の貴族の背景が、外国人の私にはさっぱり分からない。でも「百聞は一見にしかず」と言えるかどうか、今の私は、英国のロイヤルファミリーにもかなり詳しくなってしまった。

数年前、久々にカナダを訪れた。図書館で観たあの「秘密の花園」の絵本が忘れられず、オタワの本屋さん、トロントの本屋さんを何軒も探し歩いて、ようやく見つけ出した時には少なからず感激した。

それは私の記憶にある絵本より、やや年少の子供達の為に編集されていて、かなり簡略化していたけれど、私の「秘密の花園」にやっとたどり着く事ができたのだった。

| | コメント (0)

2007年4月18日 (水)

エストニアのピアノ

ポーランドの友人が、ワルシャワからエストニアの首都タリンまで、車を運転して連れて行ってくれた事がある。私たちはまず、ベラルーシとの国境に程近い、彼の別荘に一泊させてもらった。日本からの長旅をおもんぱかっての、彼の配慮であった。

そこは、数年前にも一度滞在した事があって、私達夫婦にとっては、旧知の人たちも居る懐かしい場所であった。狩猟が趣味というその友人の話によると、旧ソ連時代には国境線にそって、4キロ幅の立ち入り禁止区域が続いていた為、その界隈は動物達の安住地域となり、現在ではハンティング最適地となっているのだそうだ。

ポーランドから東に向かって北上していくと、リトアニア・ラトヴィア・エストニアの順でバルト三国が並んでいる。三国は小さな国でありながら、それぞれ歴史は勿論、言葉も民族も文化も違う。

最初の国リトアニアへの入国は簡単に通過できて、ラトヴィア国境手前のホテルにまず一泊。空気が澄んでいて、月が色濃く大きく見えるのがとても新鮮であった。リトアニアは農業国らしく、穏やかな田園が続いていた。翌日は、早朝にホテルを出発してラトヴィアとの国境へ向かう。

現在はEUの一員となったポーランドの友人は問題なく通過したのだが、私たち日本のパスポートが中々戻って来ない。彼がロシア語で尋ねてくれたところによると、パスポートの有効期限まで、一ヶ月を切っていたのが理由であった。

30分位待った挙句、当局の本部に問い合わせたとかで結局はOKが出たのだが、古い社会主義体制の名残が窺えた体験であった。その後はラトヴィアを一路北上して行き、最終地エストニアへ。入国時はやや緊張したが、こちらの方はいとも簡単であった。

滞在したのは首都タリンだったが、エストニアは観光に力を入れている印象で、見事な琥珀の飾られたお店がたくさん並んでいた。ハンザ同盟の影響でドイツ風に作られたという街並みは、まるでお伽の国の様に美しい。丘の上に聳え立つ教会からは、オルガンを練習している音が外まで響いていた。

そこでは国際会議が開催されて、夜にはオペラハウスの建物内にあるパーティルームで、歓迎のディナーがあった。残念ながらオペラを観る時間は取れなかったが、殆ど毎晩上演されているそうだ。そのオペラハウスの団員たちが、生演奏をBGMとして聴かせてくれる、さすがクラシック音楽本場のパーティである。

数年前に、ラトヴィアの首都・リーガを訪れた事がある。そこにも白亜のオペラハウスがあって、その折は幸いにもモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を観ることができた。切符売り場に残っていたチケットは二階のボックス席で、周囲にはドレスアップした人達が座っていた。が、400円相当というその値段の安さには、まだ復興途上という印象を受けたラトヴィアの、文化に対する姿勢が見えた思いだった。

驚いたのは、幕間にシャンデリアの下がるラウンジで飲んだ一杯のワインが、やはり400円相当だった事だ。オペラハウスとは、学生でも気軽に入場できる場所であり、一方でイヴニング姿の人達が社交を楽しむ、贅沢さをも兼ね備えた場所なのだろう。

ヨーロッパ社会を覗くと、そういった文化と日常との距離の近さを感じる事がとても多い。

タリンのパーティーでは、科学者でもある女性の副大統領にもお会いした。実に流暢な英語を話す。

我々と同世代の彼らをみていると、重い過去を背負ってきたとは思えない程、明るい人々が多い。ロシア人を揶揄したジョークに笑い転げる彼らの様子から、川柳や世話物の歌舞伎を楽しんだ江戸文化を思い出した。

私がピアニストだと知って、そこに置かれているピアノで是非演奏して下さいと言う。そんなところも、実にさりげない。

ピアノには「エストニア」と名前が入っていた。ブランド名が国の名前であるというのも、珍しい。旧ソ連時代は製作を中止していたが、オーナー一族にピアニストが居ることもあって、10年位前から製作を再開したのだそうだ。

ポーランドの友人が「ショパンを、何か弾いてくれないかい?」というので、ノクターンを弾いた。エストニアの主催者が、「明日テレビで、この国際会議についてのインタヴューがあるんですよ」と言うと、ポーランドの友人がすかさず言う。「忘れずに伝えてください。日本のピアニストが、エストニアのピアノで、ポーランドのショパンを弾いた事をね!」

| | コメント (0)

2007年4月13日 (金)

ポルトガルの教会

先日パスネットを買うため、地下鉄の飯田橋駅で自動券売機を覗くと、懐かしい風景のカードがあって思わず購入した。世界遺産にもなっているポルトガルの古都、シントラの街並みだった。七~八年前、家族に同行して訪れた思い出の場所である。

滞在中は、リスボンで「ファド」を聴いたり、民族衣装を着た踊りを見たり、ヨーロッパ大陸では最西端になるロカ岬へとバスででかけたり、楽しい毎日を過ごしたのだが、特に古いお城で聴いた「キャリオン」の演奏会は素敵な経験だった。お城の中には、お姫様が無事誕生したお礼に王様が建てたという教会があって、キャリオンという楽器はそこの一角にあるらしかった。

その楽器は、パイプオルガンの様に鍵盤で演奏するのだが、音源はパイプの代わりに吊り下げた沢山の鐘の連なりで、最後に演奏されたバッハのオルガン曲「パッサカリア」が聴こえた時には、ちょっとびっくりした。何しろ色々な音程の鐘が古いお城に鳴り響き、それがあのバッハの名曲だったのだから・・。

回廊に並べられた椅子に座って、陽が暮れ始めた中庭を眺めながら聴く演奏会。コンサートの後、高い所に見える窓から手を振って、拍手に応えていた奏者の姿も印象的だった。

仕事を終えて帰国する家族をリスボンで見送ったあと、私は数日の間電車やバスを乗り継ぎながら、ポルトガルの北の方まで一人旅をした。

まず電車で三時間程北上し、ワインで有名な古い街ポルトへ。海岸ぞいの断崖を削ってできた様な、起伏の多い道と階段が交錯している風情のある街だった。

着いたのは夕方で、ホテルに荷物を置いてすぐ街の中心へ見物に出かけた。古い教会の前へ出ると、ちょうど結婚式が終わった処らしく、沢山の親族に囲まれて、新郎新婦が教会の出口の階段を並んで降りてくるのが見えた。全体に地味な印象だったポルトガルで、突然現れた華やかでいかにも裕福そうな人達の集まり。

少し歩くと又有名な教会があって、入り口に立っていた若い女性が「今は立ち入り禁止なのです」と英語で話かけてきた。土曜日なのに、工事でもしているのかなと思ったら「今は結婚式の最中で、もう20分もしたら又開放しますよ」という。聞いてみると、結婚式の為に教会を貸し切っているのだという話だった。

因みに値段も尋ねてみたところ、二時間で800万円位と言っていた。ユーロが導入される前の事で、何度も換算しながら出してくれた数字でもあるし、教会のレンタルの相場は分からないながら、周りの空気が一変してしまった様な、上品で地位のありそうな人々の集団を見ると、うなずけない事もなかった。

翌日はトラムで街を回った。子供の頃によく乗っていた路面電車を彷彿させる、昔ながらの車体だった。いかにも郷愁を感じさせるたたずまいで、半日歩き回れば、中心部は大体見尽くしてしまう様な小さな静かな町だった。

午後、バスを乗り継いで今度はひなびた港町ナザレへ。乗り換えのバスを待っている間、横で私をちらちら見る可愛い少女がいたので、「どこへ行くの?」と聞いてみた、頑張って覚えたポルトガル語で・・・。地名で答えてくれるかなと期待したけれど、女の子はまるで待ってましたとばかりに早口で話し始めるので、こちらはスマイルで答える他はない。

買い物をする時も、少し覚えたポルトガル語を使って値段を聞いたりすると、流れる様な返事が戻ってくるので、つまるところ「ハウ、マッチ?」となってしまう。結局は英語を勉強するのが一番なのだな、と良い教訓にはなったけれど。

最後の日は、幼い頃よく母に聞かされた聖地ファティマに向かった。三人の羊飼いの子供達の前に、マリア様が何度も現れたという奇跡の場所。

これも路線バスに乗って向かったので、乗り降りする人々をのんびり眺めながら、二時間ほど揺られて行った。運転手さんも含めて、行く先の町の名前くらいしか通じない人々の中で、たった一人ゆったりと時間が過ぎていく開放感・・・。

ファティマに着くと、ここは巡礼の場所らしく団体客が大勢いた。草原に突然生まれた名所。たくさんの人が歩いているのに、皆一つの方向に考えが集中しているのか、静謐という印象を受ける。

「バジリコ」と呼ばれる多分神聖な場所なのだろう、その場所まで、膝まずきながら一歩一歩進んでいくおじいさん。

ファティマは、私自身にも懐かしい名前の場所なのだけれど、やはりたくさんの信者の中に一人で紛れ込むと、自分が異邦人なのだという認識を、持たない訳にはいかなかった。

宗教の中に土足で踏み込んでしまった申し訳なさを感じながら、一方では又、聖地にゆかりのある品を並べた商店街や、「奇跡博物館」といった建物が並んだ門前町らしい賑々しさも味わって、様々な思いと共にりスボン行きのバスに乗り込んだのだった。

| | コメント (0)

2007年4月 6日 (金)

ピカソ

ウィーンで勉強をしていた頃、コンクールに参加する為ジュネーブへ行った。若き日々の思い出のひとコマだ・・。コンクール事務局が紹介してくれた、若いご夫婦のお宅にホームステイをしながら、半ば旅行気分で毎日を過ごしていた。

出番が終わってから結果が出るまで数日あったので、街の中を色々歩いて回った。行き着いたきっかけは忘れてしまった。名前も定かに覚えては居ない。が、ある建物に入って二階に上るとそこには小さなサロンがあって、一歩足を踏み入れるなり、壁一杯に描かれた大きなピカソの壁画が何の前触れも無く現れたのだ。

音楽を弾く際の個性とは・・、と人並みに日々思い悩んでいた頃でもあった。横たわる裸の女性の傍らで若い男がラッパを吹いている、一見してピカソとわかるその絵の強烈な存在感に只々圧倒されて、これこそが個性なのだ、と若かった私は啓示でも受けた様に長い間そこに立ち尽くしていた。

予想通りの結果が出た後、帰りにベルンの「クレー美術館」へ行った。小高い丘の上にある小さな古い街は、とてもスイスの首都とは思えない穏やかな佇まいで、若かった私を静かに迎え入れてくれた。

教会のかたわらの広場には、地面に描かれた大きなチェスの盤の上で、子供の背丈程もある大きな駒を動かしながら、のんびりと昼下がりの時を過ごしている老人たちがいた。クレーの作品を集めた美術館は、余り人も居ない落ち着いた場所だったが、抽象的なクレーの絵はピカソの印象に比べると私にはいささか静か過ぎる様な気がした。

そこから親友の住むミュンヘンへと向かい、ピカソの絵がある美術館へ行った。たしかアルテ・ピナコテークという名前だった様に思う。そこで、ピカソの若い時代の絵をたくさん見た。同時代の他の画家の絵と見比べながら、作風を確立しながらもそこに安住せず、次々に発展していく彼の変遷には全く驚かされたのだ。ピカソの個性を改めて認識させられた思いであった。

それ以来、ピカソの絵がかけられている美術館には、機会が許せば出来るだけ立ち寄る事にしている。そして、たくさんの作品の中でピカソの絵に出会うといつも、来て良かったと思うし、帰りがけには「もう一度」と、必ずその絵の前に戻って眺めたくなるのだ。

| | コメント (0)

2007年4月 1日 (日)

大きい石の顔

私が中学生だった頃、国語の教科書に「大きい石の顔」という短編小説が載っていた。

その話とは・・・。アメリカの片田舎で、山の岸壁に老人の横顔にも見える岩があった。そこでは昔から、「いつの日か、あの顔にそっくりな顔の偉大なる人物がやってきて、この村を繁栄に導いてくれる」と言い伝えられていた。ある少年が、その横顔を毎日眺めながら、偉大な人物が現れるのを飽きずに待っていたのだが、結末は、その少年本人が待たれていた偉人であった・・.、という内容。

詳細を覚えていないので、ネットで調べてみたがそれらしい記事は見当たらない。かえってその話の背景にある、ニューハンプシャー州の「山の上の老人」と呼ばれる岩が破壊した、という記事に出会ってしまった。

1980年代、私は米国東部に住んでいた。ある夏ニューイングランド方面を車で旅行していて、本当にその「大きな石の顔」に出会ったのだ。ナイアガラの滝、グランドキャニオンといった自然の創り出した広大な景観に比べれば、慎ましい芸術作品といった風情だったが、ニューハンプシャー州では、ベストビュー地点にちょっと大きな駐車場があって、その界隈の道にある案内版には、その老人の横顔が添えられていた。

そうなのだ、自然によって創られたものは、自然と共に姿を消す。大風と大雨と凍結等、天候が原因で岩が落下したらしい。2003年5月3日の朝に破損が発見されたと、その当時のホームページは伝えている。更に、州の知事は「再建を検討する。」と、発表していたらしい。その後の経過はわからないが、再建の持つ意味は個人の見解それぞれ、という処だろうか・・。

メイン州を移動中、道端で若い女の子が活きたロブスターを売っていた。後にカナダに住んだ時、ここぞ本場とばかりロブスター巡行を重ねたのは、その時の新鮮な味が忘れられなかったせいだと思う。

| | コメント (2)