ウィーン

2007年11月28日 (水)

感傷旅行

ウィーンで勉強していた頃の私と、娘がほぼ同年齢に達した昨年冬、一緒にウィーンで数日間を過ごした事がある。娘は仕事の忙しい時期にとった休暇だったので、私一人でしばらく滞在している途中に、つかの間、参加しただけだったけれど・・。

着いた翌日は日曜日だった。クリスチャンではないのだが、いつも私は日曜日のシュテファン教会のミサに行くのを楽しみにしている。

私とほぼ同世代で、学生時代から即興の名手として知られていた、ドームオルガニストのプラニヤフスキーが、礼拝の間に演奏する即興を聴くのが楽しみなのだ。旅行の日程を決める時に、なるべく日曜日が二回入る様に企画している。

子供の頃から教会とは限りなく近い所にいた私が、うっかり気づかなかった事だが、娘にとって教会でのミサは初めてだったらしい。キリスト教との接点は、自分一人だけの領域に過ぎなくて、家庭での生活に於いては全く無縁だったのだ・・。

勿論、オペラ劇場も初めてだったし、オーケストラの演奏会も、子供の頃旅行中に連れて行った、タングルウッドの野外演奏会以来だったのでは・・?

自分の歩いた道を見て貰いたい、と思ったウィーン感傷旅行だったが、逆にいかに子供たちは自分と離れたところで人生を送っていたのかを、知る機会でもあった。

まず教会のミサで、娘はヨーロッパの伝統と文化に圧倒されたらしい。それから、のん兵衛の我々は連日、ウィーン市内の居酒屋は勿論、郊外にあるホイリゲでワインを堪能した。

サウワークラウトや、ソーセージ・チーズそしてパンの美味しさに、私たちは感激した。見た目は、東京のデパ地下やデリカッテエンセンで見かける、お惣菜と余り変わらないのに・・。

オペラ劇場では、「トスカ」を観た。私は、自慢の劇場をご披露する様な気分を味わった。ウィーン・シンフォニカとランランのピアノで聴いた、楽友協会ホールの演奏会よりも、音楽シロートの娘は、オペラ座の豪華な場の雰囲気に強い感銘を受けた様子であった。

お天気の良い日に、郊外のシェーンブルン宮殿へ出かけた。町中にあるお魚のセルフサービスのお店で色々食料を買い込んで、地下鉄に乗って行った。近くの居酒屋に寄って、ビールの瓶をテイクアウト。こういった時の、若い人の行動力には感心してしまった。

シェーンブルン宮殿の広い広い庭園の一角にある散歩道。そこのベンチに座って、素朴で贅沢なランチを味わった。宮殿内を見学したかどうかは、余り憶えていないのだが・・。

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2007年6月26日 (火)

「ばらの騎士」

ピアノを続けて来て時折残念に思うのは、リヒャルト・シュトラウスとか、ブルックナーやマーラーといった作曲家達の、オーケストラやオペラの名曲に参加できない事である。

ウィーンという街は、人づてに聞いたところによると、ハプスブルク帝国の名残が現在もうごめいていて、留学生達の様なよそ者には窺い知れない、何やら複雑な社会文化が存在しているらしい。

それは見方を換えると、東京に住んだからといって、山の手・下町あたりに名残を留める江戸っ子文化に精通している訳ではない、というのと本質は共通しているかもしれない。

歌舞伎を観ながら、自分が如何に江戸の文化に疎いかを、思い知らされる事が多々ある。そして、不案内である事に気付いたその時点から、伝統芸能を鑑賞するという行為が、単なる遊びを超えて、江戸文化の世界を探索するという体験、となり得るのだろうと思うのだ。

音楽学生だった私が、上述の作曲家達の作品に初めて出会ったのが、ウィーンフィルやウィーんの国立オペラ座という環境だった、という幸運な経験は、歌舞伎座に通い銀座で遊んで、少しずつ本物の洗礼を受けて育っていく、現代の日本人達に似ていない事もない。

それらの音楽を通して、私は奥の深そうなウィーンという街に、感覚だけとはいえ少しずつ近づいて行った気がする。

ウィーンらしい音楽と言えば、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「ばらの騎士」が、やはり筆頭にあげられるだろう。もう一度、ウィーンで「ばらの騎士」を観たい、というのがここ数十年の私の念願であった。

あの幕開けの瞬間のオーケストラの響きは、私の馴染んだオペラ座のオケの音色でなくては、ウィーンの香りがしない、とまでに私は懐かしく思い浮かべた。

仕事の関係上、音楽シーズン中に半月ほども当地に滞在できるのは3月しかない事もあって、オペラ座の公演スケジュールを眺めていても、中々タイミングが合わなかったのだが、5年程前にやっとそれが実現した。

4日間程の間隔をあけて、2回予定されていたその時の公演は、出演者の顔ぶれでチケットの値段をランク付けする当オペラ座の表示によると、最高のランクAであった。私は両日のチケットを予約した。

「ばらの騎士」は、ウィーンの社交界が舞台で、シュワルツコップの名演が昔から語り継がれている。ウィーンオペラ座の、おはこのレパートリーと言って良いだろう。

ウィーン在住の友達によれば、その豪華な舞台装置は、色々な国にあるオペラハウスに貸し出したりしているので、その結果ウィーンでも余り頻繁には上演されないそうだ。

結納の様な意味なのだろうか、貴族が女性の婚約者に贈る「銀製のばら」を、代理として持っていく役目の若者が「ばらの騎士」と呼ばれるらしい。男装をした、メゾゾプラノの役である。

その夜歌ったキルヒシュレーガーは、その当時売り出し中のウィーン出身の歌手だったと思う。騎士の役柄上、小柄なのが残念だったが、美しい声であったし、特に最近の活躍は目覚しい。

その若い騎士を愛人にもつ、元帥夫人役が、すらりとしたイギリス出身のフェリシティ・ロット。私の持っているカルロス・クライバー指揮のビデオテープでも、同じ元帥夫人役で出演しているベテランである。さすが、声の響きばかりではなく、舞台での雰囲気作り等見事であった。

最初の晩は舞台全体を楽しんだので、次回は少し響きを堪能しようか、等と思いながら、ウィーンの社交界を垣間見た様な贅沢な気分を味わいながらホテルに戻った。

翌日は土曜日だった様に思う。その時私が泊まっていたホテルは、中心地にある聖シュテファン教会の横にあって、いつものように目抜き通りのケルントナー通りを抜けてお散歩に出かけた時・・・。

前方からこちらへゆったりと歩いて来る、黒い毛皮を着た長身の美しい女性を見かけて私は、見覚えがあるなあ、と思ったのだ。余り目がよくないので、無意識にじっと見つめてしまい、その人が昨日の元帥夫人だ、と気付いた時には思わず気まずい気持ちを味わった。

数十年前のリヒテルの事を思い出した私も、流石に50代半ばとなっては静かにすれちがったのだが・・。数日後、二回目の公演がある日の午後。近くの郵便局へ手紙を出しに行くと、又そこで元帥夫人を見かけたのだった。

のんびりした、小さな郵便局だったので、教えられて国際郵便の切手を買うカウンターに行くと、そこに彼女が並んでいた。その後ろで待ちながら私は、ふと、「今晩、又聴きに行きます。前回素晴らしかったから・・・」と、声をかけてみた。

すると彼女はにっこり笑って「有難うございます。ところで、前にもおみかけしましたね・・」

考えてみれば、ヨーロッパでは私の方が異邦人だから、その場では目立った存在であったのかも知れない・・・。ともあれ、等身大のオペラ歌手に出会って、気分はなんとも爽快であった。

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2007年6月 2日 (土)

立見席

オペラは、やはり本場で観るのが一番楽しい。と言っても私は、ウィ-ンのオペラハウス位しか、よくは知らないのだけれど・・。

昨年は、数年ぶりにウィーンへ行った。一人で行く時は大体、半月程度の滞在だが、現地の演奏会スケジュールを調べて、それに合わせた日程で出かけて行く。

私が行くのは、ウィーンフィルの演奏会が、できれば二回位ある期間。そして、オペラハウスでは、出演者によって格付けされる、最上のAランクの出し物が、三つくらい並んでいる期間。

昨年は、「トスカ」、「トリスタンとイゾルデ」に「椿姫」の公演があった。

オペラハウスのチケットは、いつも何ヶ月も前にファックスで予約するのだが、今回は何かの手違いがあったらしく、一つの公演分のチケット料金しか、カードから引き落とされていなかったので、出かける前に問合せの電話をした。

歌舞伎座の予約電話でもいつも感心するのだが、さぞ忙しいと思われるチケット係の人達は、こちらの要領の悪い状態にもテンポを合わせて、穏やかに相手をしてくれる。

手違いの有無を問い合わせ、更に改めて予約の手配を頼むという国際電話に、あちらは親切に対応してくれたが、結局その時点では、「椿姫」の公演日の希望していた座席は、既に残ってはいなくて、天井桟敷に近い場所を已む無く予約する事になった。

だが行ってみると、私の場所には椅子があったけれど、直ぐ後は懐かしい立見席が並んでいた。学生らしい若者達が大勢立っていて、音楽に関する何か噂話をしているらしい様子が、窺えた。

最近でこそ私も、平土間の席やボックス席など年齢相応の場所に座るけれど、そこには大抵私の様な外国人旅行者が大勢座っていて、舞台はよく見えるものの、いわゆる「ブラボーやブーイング」の声をあげる本場らしい雰囲気からは、ちょっと浮いているコーナー、である事は否めない。

「椿姫」の際の4階ギャラリー席では、久々に間髪を入れずに「ブラボー!」が聞こえてきたし、場違いな拍手があったりすると、「シーッ!」とすぐに反応する。やはり立ち見席は真剣に聴いている人達の場所だなあ、と嬉しくそして懐かしく思った。

色々やりくりしながら、半月のウィーン滞在旅行を実行するのは、家庭人である私にとってそれなりの無理はある。それでも1年くらい過ぎると、ウィーンでの感激が恋しくなって又々計画を立ててしまうのだが、ある時ウィーンでオペラを観ながら「東京に居ても、ちょっと地下鉄に乗って東銀座まで行けば、人間国宝の役者さんたちの舞台がいつでも観られるのに・・」と、突然思い至ったのだ。

それから私の歌舞伎座通いが始まった。そして私は、江戸文化が文句なしに気に入ってしまった。

面白い出し物があると、一幕限定の「幕見席」という、簡単な椅子はあるものの天井桟敷の席に、重ねて出かけて行った事もあった。

そこには、人気役者に「成田屋!」とか「音羽屋!」等と、歌舞伎独特の掛け声をかける大向うさんや、「今週だけで三度来てますよ。昨日の仁左衛門は気合が入っていたね。」等としゃべっている、常連さんがひしめいている。勿論旅行者も沢山いるのだけれど・・。

人気のある出し物等は、前の月に既にチケットが売り切れてしまったりするのだけれど、幕見席は予約制ではなくて、切符を発売する直前に歌舞伎座の入り口に並ぶので、時間さえあれば当日思いつくままに観に行く事ができる。

時折、一ヶ月の公演を連日見たい、と思う事もある。役者さん達も人間だから、その日によって演技が微妙に変化する、それを見届けたい誘惑もある。もし若くて時間がたっぷりあれば、かつてオペラ座に通った様に、歌舞伎座でも幕見席に通い詰めただろう・・・。

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2007年4月25日 (水)

ホイリゲの先生

ウィーンで師事する事に決まったD教授に初めてお会いしたのはホイリゲであった。先生はその頃、夫人と組んだ「ピアノデュオ」の演奏活動からは退いて、教育と毎日の生活を楽しんでいらしたのだ。

ホイリゲとは、その年にぶどう園で出来たばかりのワインを飲ませる場所で、主にウィーンの郊外に軒を並べているが、その時に行った処はウィーン市内だった様に思う。

「4分の1(リットル)の白、とか8分の1の赤」という風に注文するのだ、と教えてもらう。案内がてら連れて行ってくれた先輩が、「先生は遠慮しないほうが喜ぶからね」と耳打ちするので、「4分の1」をお代わりしたら、後で「初めてのわりによく飲む」とおっしゃってたそうだ。

出会いがワインだったから、先生の思い出はアルコールにまつわるものが多い。ウィーンアカデミーは隣にアカデミー劇場が付属している事もあって、地下の食堂にはワインもビールも置いてある。先生は一日のレッスンが終わると、最後の学生と共に地下食堂でビールを一杯飲む、というのが習慣だった。

私は、「よく飲む」方だったからか,最後の時間のレッスンが多くて、いつもお相伴に預かっていた。一度、時には慎ましくいこうかと「今日はジュースにします」と言ってみると、「ビールの方が安いから、ビールにしとけ・・。」確かにワインもビールも安かったなあ。

「新入生歓迎」だったのかクラスのコンパがあって、初めて郊外のホイリゲに行った。そんな時の先生は、次から次と出てくる小話で皆を笑わせながら、タバコを絶え間なく吸ってらっしゃる。凄いヘビースモーカーだ。「禁煙をすればそのお金で世界一周できるよ、って言われるけどね。私はタバコなしで世界を回るより、ウィーンの公園に座ってタバコ吸ってた方が良いのさ」

長い夏休みに入ると、先生から電話がかかる。「ピアノの蓋は閉めたままかい?まだレッスンに来ないのはお前だけだよ」 えーっ、押しかけちゃって良いのとばかり、早速先生のお宅へ伺う。お話している時は、気のおけないおじいちゃまの感じなのに、ピアノに向かうと緊張感が漂うのがどうにも不思議である。

先生のレッスンは、「セア グート(とっても良いよ)」で始まる。それからやおら、「それじゃ、もう一度最初に戻って、一緒に改善していこう・・」(一緒に・・?)二時間位ゆったりと続き、「これが最後の曲かい?」とおっしゃると、一瞬姿を消す。ビールのジョッキを持って現れると「終わったら、お前にも飲ませてあげるから・・」ホームレッスンの後は、皆ほろ酔い加減だ。

学校でのレッスン中に、古い生徒が訪ねてきたことがあった。帰りがけに渡されたプレゼントを、カバンにしまう前にちらっと見せてくれた。スコッチウィスキー。皆、先生のことよく知ってるからな、と思っていると、ニヤッと笑って「上手く弾けたら、後で一杯飲ませてあげるよ」(?!)。めでたくレッスン室でご馳走になったのは、勿論その時かぎりだったけれど・・・。

きっと先生はたくさんの留学生を見ていらして、ともすると「お勉強」になってしまいがちな日本の音楽学生を、よくご存知だったのだろう。

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2007年3月20日 (火)

歌劇場

音楽学生としてウィーンでの生活を始めて間もなく、私は友達に連れられてオペラハウスの立ち見席売り場に並んでいた。切符売り場の窓口が開くと、140円相当のコインを払って最上階まで階段を駆け上がる。天井桟敷の立ち見席で、早いもの順に場所を選び、その前にある手すりのバーにハンカチを縛りつける。それが、場所確保のお約束らしい。

初めて観たオペラが「ボエーム」だった。あの甘美なプッチーニの旋律。幕間に聴こえる、歌劇場オーケストラのチューニングの音。彼らが昼間のコンサートで演奏する時に、「ウィーンフィル」という名前で呼ぶのだ、と友達が教えてくれる。

次は、ウィーンフィルの立ち見席だ。カール・ベームが元気な姿でよく登場していた。彼が指揮台に出てきただけで「ブラボー!」の呼び声が聞こえて、暫くは拍手が鳴り止まない。これが音楽の本場なのか、とわくわくしたものだ。シューベルトのハ長調交響曲「グレート」の演奏が余りに素晴らしくて、翌日の演奏会に又出かけ、今度は楽屋からもぐりこんで聴いた。

初めて馴染んだオーケストラが、ウィーンフィルだったという幸せ・・。演奏会は年間10回程度だけれど、オペラ座に行けば毎晩、彼らはオケピットで弾いているのだ。「トスカ」の三幕目、「星は光りぬ」のアリアを予告する様に、静かに聴こえてくるソロクラリネットの寂しく美しい旋律の絶妙さ。アンサンブルがしたくて、次の学期からは室内楽科にも籍を置いた。

当時「ウィーンアカデミー」と呼んでいた音楽大学を卒業して日本の生活に戻ってから、いつの間にかウィーンは思い出の街へと遠ざかっていった。時が流れて家族と渡欧の機会は何度かあり、ウィーンに立ち寄る事もあったけれど、四半世紀程過ぎてから一人でゆっくりウィーンを堪能する日が来た時の感動は、忘れる事ができない。

頭の中で長年大切にしてきた感動への期待を、ウィーンフィルと指揮者のサイモン・ラトルは裏切る事はなかった。最初に聴いたリヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」。あの有名な楽友協会ホールの中に、私はウィーンフィルの音と共にすっぽり包みこまれた様な気がした。

オペラ座の方の雰囲気は大分観光化されていて、客席で聞こえる言葉も半分は英語で日本語もちらほら。でも、オペラハウスは社交の場でもあるのだ・・。背中も露わなイヴニングドレスを物慣れた様子で着こなして、知り合いと抱擁しあう老婦人や、幕間に素敵な恋人とシャンペングラスを片手に微笑むブロンドの若い女性。

私は自分が年をとって改めて、オペラ座は音楽以外の楽しさも溢れる場所なのだという事を知ったのだった。

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2007年3月15日 (木)

シシー

今から30何年も前の思い出です・・。大学卒業後、私はウィーンに留学して3年間一人で勉強しながら暮らしていました。

生活を始めてから一ヶ月ほど過ぎた秋のある日、大学時代の友人に案内されて郊外にある「シェーンブルン宮殿」を訪れたことがあります。深い青空に、年代を思わせる建物の渋い黄色がよく映えて、ヨーロッパの王宮の壮大な美しさにまず圧倒されました。

その折、ガイドさんの説明に度々出てくる美貌の皇后「エリザベート」という名前に、遠い少女時代の記憶が突然蘇ってきたのです。私の子供の頃は何故か「菩提樹」とか「野ばら」といったドイツ映画がよく上映されていて、ロミー・シュナイダー主演映画の「プリンセス・シシー」はたしか舞台がウィーンの宮廷で、主人公はエリザベートという名だったのでは・・?

私は勇気を出してガイドさんに、「シシーという名は、エリザベート皇后の子供時代の呼び名なのですか?」と尋ねてみました。まだ若かった私にそのガイドさんは、子供に対する様に優しく近づいてこう言いました。「シシーはね、エリザベートのニックネームなのよ」。            

それは、ウィーンの街と一人ぼっちの私が一歩近づいた瞬間に思えました・・。

気付いて見れば、街のお土産屋さんにはシシーの絵が溢れる位に飾られていて、皇后の人気ぶりがうかがえましたから、本屋さんで ”SISSI” という分厚い本を手に入れるのも簡単な事でした。

分厚いといっても、肖像画があちこちに載ってる写真集の様な本でしたから、私にも気楽に楽しむ事ができて、あっという間にシシーおたくになってしまったのです。今でも時々その本を取り出してきて、黄ばんだページをめくるシシーおたくは健在です。 密かに自分の星座は獅子座だ、と喜んだりもしています。

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