故郷

2008年6月 7日 (土)

古い記憶、続き

そして、引越しの日。

弟と私が親戚の家で遊んでいると、夕方になって父が迎えにきた。

一緒に路面電車に乗って、見知らぬ場所へ辿りつき、真新しい大きなアパートの前に立った。

あの、オレンジ色の電気が見える所がおうちだよ、と父が先に歩いて階段を上って行った。

新しいおうちの中では、家事が嫌いな筈の母が、嬉しそうに台所で食事の支度をしていたのだった。

そこは札幌の郊外で、まわりは自然に溢れていた。

母はよく、お昼になると近所のお店でパンを買い求め、私達姉弟を連れては、一緒に見知らぬ場所をあちこち歩き回ったものだった。

草臥れると、「さあ、お昼ご飯を食べよう」と言っては、原っぱに持参の新聞紙を敷き、先ほどのパンを取り出して座った。

原っぱは、私達の遊び場の為にあるものだと思っていた。

親しくしていたご近所の家族を誘って、一緒にお散歩に出かけた事がある。

お昼になって、母がいつもの様に新聞紙を広げてパンを並べた。

その時、普段はいつも静かな雰囲気のその小母さんが「外で食べるだけで、こんなに美味しいんですねえ・・」と、とても嬉しそうな顔で笑っていたのを、今でも思い出す。

私は最近、そういったささやかな喜びを、ちょっと忘れかけていた様な気がするのだ。

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古い記憶

突然、何とも言えず胸の血が一気に舞い上がってくる様な、ときめいた感覚に捉えられる事がある。

何がきっかけか。お天気?見知らぬ土地感?未知なる物への期待?

その感覚の最も古い記憶が、今日新幹線から窓辺の景色を眺めていて、突然甦ってきた。

今にして思えば、それは新しく出来る団地の棟上式の日だったのだろうか。

とてもお天気の良い春の日曜日だったと思う。家族で連れ立って出かけた先は、何があるわけでもなく、只家族連れの大勢の人達が集まっているだけの、広々とした土地だった。

何故そんなに浮き立っていたのか。今ならばわかる。

両親が浮き立っていたからなのだ。

そこで、偶然母の友人に出会ったらしい。

綺麗な人で、フレーヤースカートのワンピースを着て、高いハイヒールを履いていた。

その人は、鉄棒か何かに斜めに寄りかかりながら、その高いヒールに全体重をかけて、母とおしゃべりをしていた。

幼かった私は、大人ってあんな風にして立ったりするものなんだな、と、じーっと眺めていたが、今ならばわかる。

高いハイヒールで、すっかり足がくたびれてしまっただけなのだ、ということが。

訳もわからず、只大人達をを眺めながら、自分なりに受け止めていく子供の感受性。

今頃になってわかってもなあ・・。自分の子供達の、幼かった日々に気づくべきであったのに。

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2008年1月 8日 (火)

戦後

今から50数年前の、札幌グランドホテルでのクリスマスパーティーとは、一体どんな集まりだったのだろう。

かすかに憶えているのは、先生に手を引かれて皆の前へ行き、ソナチネの7番を弾いた事だ。それが、私の初舞台。小学校に入る少し前の12月だった。

それは、クリスマスコンサートだったのかもしれない。室内楽や声楽の演奏があった様な気もするし、たった一人の子供の出演者だ、ということでたまらなく誇らしかった事は、何となく憶えているから・・。

そして、帰りがけに、真っ白な髪のアメリカ人のおばあさんが、屈みこむ様に私に向かって、「昔の様に、もし今も私の家にピアノがあったら、遊びに来てピアノを聴かせて欲しいのだけれど・・」と話し掛けてきた場面は、訳はわからないながら、今もはっきり目に浮かぶ。

親しく外国人に話し掛けられたのは、その時が初めてだったからだろう。日本語の堪能だったその方には、後に、私の進学した中学の、英会話の授業でお逢いした。もっとも、私の入学直後に、高齢の為退職されてしまったので、昔話を交わす機会は得られなかったけれど・・。

外国人を交えて、ホテルでのクリスマスパーティーとは、あの貧しかった時代にさぞきらびやかなものだったのだろう・・。

私が生まれた頃は、進駐軍という名の軍服を着たアメリカ人はよく見かけたけれど、彼らは子供こころにも、ちょっとニュアンスの違う外国人だった。何処となく、怖く見えたし・・。

その頃、進駐軍の一人と結婚した、母の友人宅へ遊びに行った事がある。生まれたばかりの、コーラちゃんという青い目の赤ちゃんがいた。楽しかった記憶があるけれど、その時、パパは軍服を着ていなかったからなあ。

1980年だったと思う。イランのアメリカ大使館が占拠されて、大勢のアメリカ人が人質になるという事件があった。その際、最初に開放された人たちの中に、一人日系人が居たという記事を読んで、そこに懐かしい名前を見つけたのだ。

お母さんが日本人で、名前が「コーラ・アンヴァォ‐ンさん」。突然、幼かった日々、発音の難しいその、アンヴァォーンさんの名前を練習するのが、、周りで流行していたのを思い出した。

小学校の頃、天使病院のお医者さんに親しい知り合いが居て、よく遊びに行っていたのだが、そこで時々、鈴木ルカちゃんという金髪の可愛い男の子に出会った。同じ学年位だったのだろうか、ヴァイオリンを弾くその姿は、学校の仲間とは世界が違う程に素敵だった。

子供の事だから、養子だという位しか詳しい事情はわからなかったけれど、私にとって、「あいのこ」という響きは、あの美少年だったルカちゃんと結びついて、ちょっと物悲しく、そしてちょっと、ときめいて聞こえるのだ。

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2007年12月28日 (金)

「一力」の大福餅

北大のキャンパスの端あたりから、私は昔の路面電車が通っていた公道に出て、周りを眺めながら歩く事にした。

ある時、弟と二人で自転車に乗ってその辺をぶらぶらしていたら、百円札が6枚ぱらぱらと道端に落ちているのを見つけた事があった。二人で北署と呼ぶ交番に持っていった。

お回りさんは、小さな子供たちがお金を届けに来たのに驚いた様子だったが、三ヶ月だったか半年だったかは忘れたけれど、「ある期間待っても、落とし主が現れなかったら、そのお金は届けた人のものになるのだよ」と教えてくれて、私たちは嬉々として住所を伝えて帰ってきた。

そして、小さな子供達には大金に思えたそのお札が、いよいよ自分達のものになるのだ、という知らせの郵便がやって来て、母に連れられて受け取りに行った様な覚えがある。

記憶によれば、北20条あたりにその北署はあったのではないかしら・・。

そして、当時の我が家から最寄の停留所だった「北24条」にたどり着く。ここから市電に乗って、週一度ピアノのレッスンに通ったのだし、中学生になってからは、毎日電車通学をした、私のいわば拠点である。

確かオリオン座という映画館があったなあ・・・。突然記憶が蘇る。町並みは変わってしまって、映画館は見つからなかったが、線路の東側には記憶どおりにお薬屋さんがあった。

西側の角は市場だった筈、と思い出した瞬間小さなスーパーが目に入る。あの頃、母の日というと、弟と競う様に母の喜びそうなプレゼントを用意したものだった。

ある時、それぞれが自転車に乗って買い物にでかけ、母の好きな大福餅を買いに行くと、そこで同じ事を考えていた弟に、ばったり出くわした事があった。

場所は覚えていた。和菓子屋はすぐにみつかって、そこで「一力」という看板を見た時は、力が抜けそうになった。中に入ると、おしゃれな店作りに変わってはいたが、ガラスケースの端っこには、控えめに大福餅が並んでいた。

私は、一個だけ買い求め、近くの公園で懐かしい感触を味わった。

卒業した柏陽小学校の前を通り過ぎ、いよいよ、と思った場所には、何と巨大な駐車場と大きな量販店が・・・。ここでは、中まで入って見る気は起きなかった。

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2007年12月27日 (木)

メンラード神父様

夏休みに、札幌へ行った。私にとっては、中学二年まで過ごした「ふるさと」である。
殆んど50年ぶりに、昔住んで居た界隈まで、札幌駅から歩いてみた。

当時、札幌駅以北は北大の広大なキャンパスがあるばかりで、まだ余り開けた場所ではなかった。そして私はその頃、キャンパスの更に少し北にある、官舎に住んで居たのだった。

細かい記憶が薄れてしまっている私にとっての目印は、当時路面電車で今は地下鉄の路線となった駅名と、近くにあった公立高校。

昔の電車どおりに沿って、西側に北大の敷地が延々と続いていたのは、印象に強く残っていた。

まず、北大正門からキャンパス内に入ってみた。さすが観光地の大学だけあって、夏期休暇中で学生数が少ない事もあったけれど、有名なクラーク博士の銅像前で見かけたのは、親子連れや観光地には欠かせない私の様なおばさん達。私も、小学生の頃は自転車に乗って、よくこの大自然に恵まれた構内へ遊びに来たものだった。

静かな道を歩いて居ると、小さな世界なりに力一杯毎日を生きていた、子供の時の感覚が突然思い起こされて、不覚にも涙が溢れてきそうになった。

広々とした北海道の大学は、昔訪れたアメリカの大学を思いおこす様な、異国情緒に溢れていて、旅情をさそう。

キャンパスの少し東に、天使病院があったのを久々に思い出した。その側には、カトリックの僧院と教会があって、メンラードという名のドイツ人の神父さまがいらした。

子供心に、その神父様の存在の背景に、生身の西洋へと繋がる道を想像しながら、憧れをもって、日本語の堪能な神父さまのお話を聞いていたものだった。

あるとき、教会の近くに住む知人の家の子供たちと、僧院の庭へ遊びに行って、夢中になって騒ぎ回っていると、どこからかその神父様が出ていらした事があった。

「みんな、こっちに来てごらん」と呼びかける神父様に連れられて、後ろめたい気持で付いていった私達は、うす暗いお部屋に案内されて恐る恐る入って行くと、そこは神父様の自室だったらしく「良いものをあげましょう」と、宗教画の描かれたたくさんのカードを頂いたのだ。

それらには、ラファエロの聖母子像等が描かれていた。

後に長じて、ヨーロッパの美術館でそういった宗教画に出会った時、私はその時の敬虔な気持をよく思い出したものである。

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