受け渡され行く「はじまり」の鼓動
普段自分でピアノを弾いている時、全てを言語に置き換えて考える必要は、必ずしもない。しかし、誰かにレッスンをする状況となると、弾いてイメージを伝える場合も間々あるとはいえ、基本は言語で思いを相手に伝えなければならない。
曲に対するイメージを、言語に置き換えて伝えるという手順は、自分の中で分析した事柄が、果たして相手に伝わっていくか否かという、大げさに言えば、「試金石」の様な役割も担っていると言えるだろう。
そして毎週月曜日。大学で一日のレッスンを終えて、不得手な運転をしながら家路につく時、置き換えた言葉の数々が、全ては表出されずに自分の中にたまっているといった、どこかストレスの様なものを、私は感じているのかも知れない。
帰宅すると、快い疲労と共にパソコンに向かって言葉を並べるというパターンが、最近の私の習慣になってきている。
今日は長い夏休みを終えた、後期最初の出校日。久々にパソコンに向かう心境である。
でも、思い浮かぶのはやはり、一年半ぶりに開くリサイタルのことになってしまう。
11月10日に予定している、そのプログラムは、バッハの「パルティータ1番」シューマン「謝肉祭」ショパン「24のプレリュード」という小品達で、数えてみると50曲に及ぶ、珠玉の連なりである。
受け渡され行く「はじまり」の鼓動
というキャッチコピーが、それらの曲達と共に、伝わっていけば嬉しいのだけれど。
それぞれの曲の素晴らしさは、、ピアノに向かっている時間を、実に楽しくさせてくれる。それが音になって表現されていけば、こんなに幸せな事は無いのだが・・。まあ楽しさからの出発は、決して悪い事ではないだろうとは思っているけれど。
これから暫くは、又「言語」より「音符」の方に、時間の重みが傾いていく日々かな。
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